聖書で伝えられる過ぎ越しのお祭りの意味 Vol.34

真実を告げる書

この世界には昔から伝わる儀式やお祭りがたくさんありますよね。
私は今までその意味を深く考えたことはありませんでした。

現代のお祭りなどは、執り行っている人も深い意味をよく知らずに形式的に儀式をしているということもあるのではないでしょうか。

私は神様とか仏様とかは実在しない架空の存在で、多分いないけどもしかすると空の上に存在しているかもしれないというような感じでいました。
本当はいるとしても誰も見たことはない存在だと。
だから一応初詣は行くし、お守りも買います。

深く考えていなかったときはその程度の考えでしたが、都市伝説に興味をもってからは、そもそもなぜそのお祭りや儀式が始まったのかなどたくさんの疑問がわいてきました。

しかし今は「真実を告げる書」を読んで「神様」という霊のような不思議な存在はいないけど、聖書の中の「神」といわれる創造主は実在することがわかりました。

ただその創造主はこの宇宙の全てを無から創造した存在とはまた別の存在です。

そして聖書の中で書かれているお祭りや規律のようなものは、現在もお祭りや儀式として伝えられているものがあるということを知りました。
ということは、その他にも現代のお祭りや儀式として伝えられているものは、その創造主と関係があるのではないかと思います。

それも世界中のお祭りがそうなんじゃないかと。
もちろん日本のお祭りや儀式などもです。

このことについて「真実を告げる書」を参考にしながら書いていきますので、信じるか信じないかはみなさんの自由です。

過ぎ越しのお祭り


聖書の中で実際に書かれているお祭りは、「過ぎ越しの祭り」です。
そして、このお祭りは現在も続いています。

過ぎ越しの祭りとはユダヤ教のお祭りで、種(酵母)を入れないで作ったパンを7日間食べるというものです。
このお祭りの起源は、旧約聖書の「出エジプト記」に記されている出来事です。

簡単に「出エジプト記」の過ぎ越しについて書いてみます。

イスラエルとその子孫はカナンの飢饉のためにエジプトに避難しました。
その後、エジプトで勢力を増していくイスラエルの民を脅威に感じたエジプトの王パロ(ファラオ)は、イスラエルの民に重労働をさせ苦しめていました。

それでもイスラエルの民は増えていったので、王パロはイスラエルの女性が産む子供が男の子だったらナイル川に投げ込むようにという命令を国中に出しました。
そんな中イスラエルの子供として生まれた1人の男の子がいましたが、母親はその赤ちゃんがあまりにも可愛かったため子供を川に捨てられずに内緒で育て、3か月後にかごに入れて川のそばに置いておきました。

その後その赤ちゃんはエジプトの王パロの娘に拾われて育てられたので、捨てられずに無事に成長しました。
その子はモーセと名付けられました。

神は、エジプトで奴隷として重労働をさせられているイスラエルの民が助けを求める声を聞き、大人になったモーセにイスラエルの民を助け出す役割を与えました。
その頃はイスラエルの民が奴隷として働いてから400年も経っていました。

モーセは王パロに神に言われたとおりのことを伝えてイスラエルの民を解放するように言いましたが、パロはなかなか解放してくれず、それどころかさらにイスラエルの民に重労働をさせるようになってしまいます。

そこで神はエジプトに対して10の災いを行いました。
その中の最後の災いはなんと、エジプトの人と家畜の全ての初子を殺してしまうという恐ろしいものでしたが、これは元々は王パロがイスラエルの民にしていた事です。

このことに際して、イスラエルの民の初子が神に殺されないために神からイスラエルの民にいくつかの守るべき事が伝えられます。
それがこちらです。

  • 神が最後の災いを行うときは、イスラエルの民が400年間奴隷として労働させられていたことから神が救った証として、その月を新しい暦の第1月とし、正月とすること。
  • その月の10日に1歳の傷のない雄の子羊または子山羊を用意してその月の14日まで置いておき、14日の夕暮れに子羊または子山羊をほふり、苦菜と一緒に食べる。
  • 羊の肉を家族で食べきれないときは、隣の家の人と一緒に分けて食べること。
  • その肉を食べる時は、生でも水で煮てもいけない。火で焼いて食べること。
  • 肉は、苦菜と種なしのパンと一緒に食べること。
  • 食べた肉は朝まで残しておいてはならず、残った分は火で焼きつくすこと。
  • 一束のヒソプを鉢の中の羊の血に浸し、家の鴨居と入り口の二つの柱に付けること。
  • 神は入り口にその血が付いた家は過ぎ越し、その家の初子は殺さない。
  • イスラエルの民はその夜外に出てはいけない。
  • 神がエジプトの初子を殺しに来るまでの7日間、イスラエルの民は種(酵母)を入れたパンを食べてはならない。
  • その7日間は、家にもパン種を置いておいてはいけない。
    もしその7日間の間に、パン種(酵母)を入れたパンを食べたら、その人はイスラエルから断たれる。
  • これらは、立って靴を履き、つえを手に取って急いで食べる。

(「出エジプト記」12章参照)

さらにその後のイスラエルの民に定められたことは、生まれてくる全ての男の子の初子は神に捧げなければならないというものです。

しかし実際に子供を犠牲にして捧げるのではなく、子羊をもってあらがうということです。
つまり子供を捧げる代わりに子羊を捧げるのです。
この初子は、イスラエルの民の子だけでなく家畜にも定められています。
全ては神がイスラエルの民をエジプトから救い出したことを忘れないためです。
(「出エジプト記」13章12節〜13節参照)

以上がエジプトでの過ぎ越しのときのイスラエルの民への決まりで、忘れないように代々祭りとして伝えていくようにと神から言われたことです。

「過ぎ越し」というのは、最後の災いのとき創造主がこの言い伝えを守った家の長子は殺さずに過ぎ越すということからです。

長いエジプトでの奴隷生活から創造主が救ってくれたということを忘れないために、過ぎ越しのお祭りを続けるようにと言われています。

聖書で読んだだけでは決まりごとが多いお祭りだなと思います。
当時のことを忘れないように、この部分は詳しく何度も書いてあります。

これは儀式として守るべきこととなっているので、意味などを深く考えなくてもそのまま行えば代々伝えることができるようになっています。

ただし、子羊や子山羊をとってきて食べるのはこの最初の1回だけで終わりのようです。
その後はパン種(酵母)を入れないパンを7日間食べる事だけを毎年行うようです。

この過ぎ越しの祭りを続けることで、神がイスラエルの民を救ったということが代々伝えられることになるのはわかります。
現在でも続いていることから、この聖書の出来事が本当に起こったことだろうということもわかります。
もしただの作り話ならこんなことを毎年続ける意味がないですからね。

過ぎ越しの祭りの決まり事の意味


過ぎ越しの祭りでは7日間種なしパンを食べることになっていますが、その理由としてよく言われるのは、酵母を入れて発酵させる時間がないほど急いでエジプトを逃げ出したためだといわれます。
また、酵母は発酵させるので腐るということを連想させるため、神を汚すことになるから入れないようにしたともいわれます。

そこでこの過ぎ越しの祭りの由来となった旧約聖書の「出エジプト記」に記されている決まり事について、私なりに解釈してみました。

まず、このことを書く前提として「真実を告げる書」を参考にしているということをご了承ください。
「真実を告げる書」は、聖書の神や創造主といわれている存在は実在し、その創造主が遥か遠い惑星からこの地球に来て、人類やあらゆる生物を創造したことが書かれています。

その創造主はこの地球の環境では大気の違いがあり、いつも宇宙服のようなもので過ごしていました。
しかし微生物やウイルスなどはなかなか完全に防ぐことは難しかったのかもしれません。
もしかすると創造主にとって危険な存在だった可能性もあります。

それが過ぎ越しの種(酵母)なしパンの由来なのではと思います。
いつもはイスラエルの民には近づかず、遠くから見守っている創造主が、過ぎ越しのときにはエジプトの初子を殺してイスラエルの民を助けに降りてくるため、その準備として衛生面を重視していたのではないでしょうか。
酵母はイースト菌という菌ですから、創造主たちには害のある可能性があります。

それならこの期間は家のどこにもパン種(酵母)を置いておいてはいけない、というのも納得できます。
もし家にパン種を置いておいた人や種の入ったパンを食べた人は、イスラエルから断たれるのもそのためです。

7日間種なしパンを食べる理由は、人間は7日の間菌類を断てば創造主にとって衛生面で影響が少なく危険ではなくなるからではないかと思います。

急いで食べるためだったといわれることがありますが、7日間食べることになっているので発酵させる時間がなかったとはいえないと思います。

その後、急いでエジプトを出て行ったのでパン種が無いパンの練り粉しか持っていないため、その種の無いパンの練り粉でお菓子を焼きました。
これが急いで出て行ったために種なしのパンを食べたといわれているのではないかと思います。
確かに急いでいたために種なしのパンしかなかったのですが、それはエジプトを出て行った後のことです。
過ぎ越しの祭りで種なしのパンを食べないといけない理由にはなりません。

そして子羊を食べるときの決まりについて、傷の無い1歳の雄というのは、傷があるともしかして病原菌がいる可能性があり、雌ではいけないのも何かそんな理由からかもしれません。

生で食べてはいけないのはわかりますね。
もう1つ、水で煮てもいけないとあるのは、子羊を水で煮るためには鍋に入るようにまずは生で切る必要がありますよね。
でも生で切るとその切り口や調理器具に菌が繁殖してしまう恐れがあるためではないかと思います。
そのために丸ごと火で焼かないといけないのです。
苦菜といっしょに食べなくてはいけないのも殺菌効果などのためかもしれません。
さらに食べ残した分は朝まで残しておかずに火で焼き切る必要があるのも、そういった衛生面の理由からだと思います。

羊の血を家の入口の鴨居と両側の柱に塗るのは、エジプトで創造主が初子を殺しに来たとき創造主がその家を過ぎ越すようにする印ですが、それは羊の血に何か創造主が嫌がるものか、または危険があるためなのかもしれません。
創造主が近づかない理由があるのでしょう。

しかしこれについてはまだよくわかりません。

現代まで続ける意味は?

このように聖書に書かれているお祭りなどの決まりごとには、創造主を忘れないようにという意味の他に、もしかすると創造主にとっての安全面を考えたものがあるのかもしれません。
割礼にもそういった創造主にとっての衛生面での意味があるのではないかと思いました。

聖書には代々この出来事を忘れないようにするためだと書いてありますが、その他にこういった意味もあるけど、当時のイスラエルの民に言っても理解出来なかったから言わなかっただけなのでしょう。

その事を意味を深く考えなくても代々完璧に実行できるようにしておくことが重要なのです。

その理由は創造主を忘れないためですが、大事なのはいつか創造主がこの地球に再び現れるとき、過ぎ越しの祭りの時期にイスラエルの民のもとに現れるなら、創造主にとって衛生面の心配がいらないからです。

この後イエスが死んで復活し、創造主と天に昇ったときは過ぎ越しの祭りの時でした。
それはきっとイエスの体の菌類を少なくしておく為だった可能性があります。

創造主がこの現代に再び現れるなんて、聖書をほとんど知らない日本人には非現実的だと思う方もいるかもしれません。
しかしこの事は聖書にもあることで、世界中のキリスト教徒やクリスチャンには信じられていることです。
ある意味で常識かもしれません。

という事を、聖書の不思議な決まり事の理由として思いつきました。
信じるか信じないかは、読者の皆さんの自由です。

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