今回はイスラエルについて書いていきます。
イスラエルと聞くと、多くの人は現在のイスラエルという国を思い浮かべると思います。
しかし聖書を読んだことがある人なら、イスラエルとはイスラエル12氏族のことで、その由来はアブラハムの息子のイサクの息子であるヤコブのことだと知っているでしょう。
イスラエルの12氏族とは、旧約聖書の中に書かれているヤコブの子孫です。
ヤコブが「神」と相撲のように組み合って勝ったとき、ヤコブはイスラエルになりました。
32:28その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。
(「創世記」32章28節より)
この場面では人間であるヤコブと「神」が実際に組打ちをしたり話したりしています。
このエピソードについて、聖書によってはヤコブの相手をした「神」が天使と書かれていたり、本当に格闘したわけではなくて祈りの比喩だと解説されているものもありますが、私は実際にあった事実だと思います。
そしてこのエピソードが事実なら、ヤコブと闘った「神」は創造主の惑星の人か宇宙文明の世界の人でしょう。
なぜ闘ったのかというと、ただ人間と闘って力比べをしてみたかったのだと思います。
ヤコブに勝てないと思った「神」がヤコブの腿のつがいにさわると外れました。
これはきっと宇宙文明の技術です。
このことから、たとえ「神」でも人間より力が強いとは限らないのですが、絶対に危険にさらされることはないのだとわかります。
この時ヤコブはどうしても神から祝福を受けたくて、ここから去らせてほしいという「神」をなかなか去らせませんでした。
聖書での神からの祝福とは抽象的なものや精神的なものではなく、現実に富を手に入れることだと思います。
直接何かを神から与えられるのではありませんが、その時代の価値のあるものが財産としてどんどん増えるようにしてもらったり、子孫が繁栄するように物理的に操作してもらうことです。
このとき「神」からヤコブが名前を尋ねられたので「ヤコブ」だと伝えると、これからは「ヤコブ」から「イスラエル」と名乗るようにと言われました。
その理由は神と人とに力で争って勝ったから、ということです。
そしてヤコブは闘った「神」に名前を尋ねましたが、「神」は「なぜ名前を尋ねるのか」と返し、その場でヤコブを祝福して去りました。
ヤコブはその場所をペニエルと名づけ、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」と言いました。
これはつまり、神と直接間近で接することはタブーのような恐れ多いもので、死に値することだとヤコブは思っていたのでしょう。
おそらくそう伝えられてきたからです。
しかしヤコブは実際に「神」と顔と顔を向き合わせて組み合ったのに、無事に生きていることに驚いているのです。
ですので、やっぱり本当に顔と顔を向き合わせてヤコブと神が闘ったのです。
このエピソードにはあるメッセージが込められていると私は思います。
神の選民
イサクの息子のヤコブは、イサクの双子の息子の弟として生まれました。
双子の兄はエサウですが、ヤコブはお腹を空かせて帰ってきたエサウからレンズ豆の煮ものと交換に長子の権利を無理やり譲ってもらったり、さらにヤコブを愛していた母のリベカの企みで、父イサクを騙してエサウに譲るはずだった神の祝福を得ることに成功しました。
これを読むとヤコブは人としてどうなんだという印象を持ってしまいますが、ヤコブだけでなく旧約聖書の物語にはこういった出来事がよく書かれているのです。
特にモーセが「神」から十戒を授かる以前は人間たちはかなり好き勝手に生きていたということがわかると思います。
それでもアブラハムから始まった祝福の「神」が人間にアドバイスをしていたので、祝福された一族は平穏に暮らしていました。
祝福されたアブラハムの家系は「神」から贔屓されてずるいと感じる人もいるでしょう。
ですが、この頃にもしも「神」や「主」から人間の誰にも何のアドバイスもなかったら、恐らく現在のこの文明はここまで発展していないかもしれないし、人々の道徳的な心もかなり遅れているだけでなく、現代でももっと野蛮な世界になっていたかもしれません。
ですのでたとえ贔屓だったとしても、アブラハムたちのような一部の人間に道徳心や健康面など生きるために必要なアドバイスがあったことは悪いことではなかったと私は思います。
イスラエルの民を含むユダヤ人は、地球に人間が創造されたときに一番知性が優れていたために「神」から人類を導く代表として選ばれた人たちです。
特にイスラエルの民は、前にお話ししたコンクールの1つにおいて、科学審査委員会により、その知性と資質が、地球上で最も成功を収めるタイプの人間として選ばれたのです。
(「地球人は科学的に創造された」p24,25より)
この「神」からの祝福をめぐって争ったり騙し合いをしたりすることは神と関わる人間には相応しくないように思いますが、それでも人類のはじめの頃の人間たちの中では優れていたのでしょう。
文明の始まりの頃の人間は全体的にかなり野蛮で原始的だったのです。
イスラエルの意味
ヤコブから何世代も後のイスラエルの民の中には、自分たちは選民だということから思い上がりの心を持つ人もいて、本当は人類の進歩のために全人類を導く役割があったのにもかかわらず、いつからか「神」である創造主のことをイスラエルの民だけの秘密にしてしまったのです。
そしてさらに「神」は実体はないけど存在するというように、不思議で霊的な一切見えない存在にしてしまったのです。
そんな面倒なことをせずに神の存在自体を隠せばいいのではないかとも思いますが、一部の人々が神の存在を利用して宗教を作り上げたため、神の存在は絶対に必要だったのです。
ですので、聖書の中で創造主の存在が具体的にわかるように書かれていた箇所は、後に書き換えられた可能性が高いです。
このことが、「神」とされる創造主や創造主が派遣したイエスが実在したのかどうかが今でも曖昧にされている原因だと思います。
ですが、創造主はイスラエルの民がいつかこうなる可能性があることは予想できたのではないかと思います。
イスラエルの民だけでなく人間の性質として、欲に目がくらんだ権力者はいつか必ず真実を隠して大衆を扇動するようになるかもしれないと。
もしそうなったときでも真実が見つけられるように、創造主は神と闘ったヤコブに「イスラエル」と名乗るように言ったのではないかと私は思います。
ヤコブはこのことを大切なことだと感じていたと思いますし、聖書の中でもとても重要な箇所になっています。
特に神の祝福を受け継いだアブラハムの子孫なら、神から「イスラエル」と名乗るように言われたら必ず守るでしょう。
このエピソードはヤコブがきっかけで起こったことで、神の選民としての重要な出来事ですから絶対に省くことはできないと思います。
ですので、この名前に神または創造主の存在を具体的に証明する意味があるために都合が悪い人々がいるとしても、もう隠すことはできないのです。
「イスラエル」という名前にはヘブライ語で「神と闘う」という意味が込められているため、ヤコブが実際に「神」と組み合って勝負をしたと証明することになります。
これ以外に神と闘ったという意味になる何か象徴的なものがあるでしょうか。
また「イスラエル」には「神の支配」という意味もあるそうですが、聖書に「神と闘って勝ったから」と書いてあるのでこのままの意味だと思います。
それに、この相撲のように直接闘ったこと以外の譬えや象徴で神と闘ったことにすると、どうしても神を冒涜することになってしまう気がしてしまいます。
たとえば祈りや信仰で神と闘ったというと、イスラエルの民は神と対立したという印象になるのではないでしょうか。
そうするとイスラエルの民が神から選ばれた選民という意味がよくわからなくなるし、そこから派生したキリスト教やイスラム教の神の存在とは何なのかがさらに曖昧になると思うのです。
創造主からのメッセージ
現在では一つの国の名前にもなっている「イスラエル」には、神の選民であるという象徴的な意味があるために誇りを持って使われている名前ですが、一方で神は肉体を持った実在する存在であることを証明する名前でもあります。
神の実在を否定しようとすれば「イスラエル」と名乗るように言われたヤコブのエピソードが弱まるし、かといってイスラエルという名前を使わずにいれば神の選民である民族のイメージが弱まります。
とにかくどちらかだけを優先したり都合が悪い部分だけを隠そうとしても、どうしてももう一方の存在が見えてきてしまうのです。
創造主はきっとこの人間の欲を利用して、絶対に後の世まで創造主の存在を証明できる方法を使ったのです。
創造主の実在を証明することは人間を超える存在がいるということになり、さらには人類が進歩すれば次の新しい文明が必ず待っているという希望のメッセージになります。
そのときには実在する創造主に顔と顔を合わせて会うことになります。
このことを後の世にも確実に伝えるために、ヤコブと闘った「神」はヤコブに「イスラエル」と名乗るようにいったのだと思います。
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