黄泉の国は死者の住む場所だと言われています。
その由来は古事記に書いてあるからです。
ですが古事記には、黄泉の国は死者のいる国とはありますが、人が死んだら行く場所だとは書いていないように思います。
つまり古事記にある黄泉の国はすでに出来上がっていた世界であって、現在生きている人々が死んだら行く場所ではないかもしれないのです。
人は死んだら黄泉の国に行くというよりも、天国に行くというのが普通の人々の考えというか信じていることではないでしょうか。
それに天国は美しくて、死んでから天国に行った人は成仏して苦しみや痛みもなくなって暮らしている感じです。
しかし、黄泉の国は天国のようなところではなく、なんとなく恐ろしくておどろおどろしい感じのする場所であり、死んだ人はそのままの姿でいるようなイメージがあります。
このことから、黄泉の国とは人の肉体の死に深い関わりがあるような気がするのです。
ただし、これは人間が自然に進化したのではなく創造されたということを前提にした考えですから、信じるか信じないかは皆さんの自由です。
今回はこの黄泉の国の謎について考えていきたいと思います。
古事記と聖書を照らし合わせてみる
古事記と聖書は共通する部分があると思います。
特に人間の創造に関わることなど、この世界の初期に起こったことについてです。
古事記によると、伊邪那美(イザナミ)が火の神である火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を産んだときに陰部を火傷し、それが原因で死んでしまったため、伊邪那美を比婆山(ひばやま)に葬りました。
そして伊弉諾(イザナギ)は伊邪那美が死んだ原因である火之迦具土神を十束剣(とつかのつるぎ)で殺し、伊邪那美を迎えに黄泉の国へ行きます。
このことから、伊邪那美の体は一度葬られているのに伊弉諾は黄泉の国へ伊邪那美を迎えに行ったのです。
これがどういうことかを考えてみると、人間の話なら肉体を復活させようとしたようにも考えられますが、伊邪那美は神ですから、ただの肉体という概念ではないと思います。
古事記の神とは全て、宇宙文明や創造主がこの地球や人間に関わった何かの結果を表したものだと私は思っているので、伊邪那美の死についてもこれを元に考えてみます。
以前に、伊邪那美の死とは人間に「死」が与えられる原因になった、聖書で「禁断の果実」といわれる科学や宇宙文明の知恵を教えられたことではないかと書きました。
科学のことを「火」にたとえることもできるからです。
関連記事:伊奘諾と伊邪那美の伝説とノアの大洪水 Vol.122
この記事の中で、最初に産んだ水蛭子(ヒルコ)がノアの大洪水の前の世界ではないかと書きましたが、今回のことを書いていたら違うような気もします。
とはいえ、伊弉諾と伊邪那美とノアの大洪水は無関係ではないと思うので、はっきりとはわかりません。
古事記の時系列は実際の出来事とはあまり関係ないようにも思えるからです。
伊奘諾は神なので、ただの人間の生だけではなく人間の生きる世界に関わる創造主のことも表していると思います。
では伊邪那美が生きていた頃とはどういう意味かというと、聖書での地上の楽園で、科学を知らないままずっと永遠に生きていく予定だった人間のいる世界のことを表しているのだと思います。
その世界は人間だけがいる世界ではなく、人間を創造した創造主たちと一緒に暮らしていた世界です。
そこでは人間は創造主たちに保護されながら生きていたといえます。
伊邪那美の死が人間に与えられた死だとすると、伊邪那美は人間に最初に与えられていた永遠の命の象徴なのかもしれません。
そして伊弉諾は生きている人間の世界を表していると思います。
ということは、伊邪那美と伊弉諾の別れとは永遠の命がなくなった人間を表しているのです。
3:22主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。 3:23そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。 3:24神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。
(「創世記」3章22節~24節より)
精神が進歩していない状態で科学や宇宙文明の知恵を知った人間は、宇宙では危険な存在であると判断されたため、永遠に生きるための何かを取り除かれたのです。
もしも人間が科学を知らないままだったなら、宇宙文明から危険な存在とはみなされないため、永遠の命を与えられたままで創造主たちとずっと暮らしていたのかもしれません。
しかしそれが果たして人間にとって幸せなのかどうかはわかりません。
科学やそれによる文明の進歩というものを永遠に知らないままだったなら、それも幸せだといえるのかもしれません。
例えば新しいゲームやスマホがまだ無い頃は、それらが無いことを不幸だとか不便だとは感じませんね。
ですが一度でもその存在を知ってしまったなら、もう知らなかった頃には戻れないのと同じです。
ただ、伊邪那美の死だけで人間が科学や知恵を与えられたことを表現しているとも思えるので、そのことが伊邪那美が黄泉の国に行ったことを表しているのではないような気もします。
イザナギとイザナミが表すもの
黄泉の国は、伊弉諾が伊邪那美に戻ってきてほしいと思ってもう一度会うために向かった場所です。
もしも伊弉諾が伊邪那美に会いたいと思わなかったら、伊邪那美が死んだというだけで黄泉の国の存在は語られなかったのかも知れません。
伊邪那美の死が人間が科学を教えられたために死を与えられたことだとして、伊弉諾がもう一度伊邪那美に会いたいと思ったことはどういうことか考えてみます。
人間に科学を教えてしまったのは創造主の惑星の科学者であるルシファーです。
そして科学を教えられた人間に死を与えて楽園から追放したのは創造主の惑星政府です。
楽園から追放され、永遠の命がなくなった人間たちとルシファーは一緒に地球で暮らしていました。
しかしその世界はルシファーたちが人間に伝授した科学や道具によって危険な世界になってしまっていたようです。
このことを古事記に当てはめると、死んでしまった伊邪那美(永遠の命をもった人間)にもう一度会いたいと、黄泉の国へ迎えに行った伊弉諾(もう一度楽園の頃のように人間たちの世界を作りたいと思った)と考えることができる気がします。
エロヒムの息子たちが人の娘たちのところに入はいり、娘たちに産ませた子供である彼らは、昔の勇士であり、有名な人々であった。
『創世記』6 章4 節これは創造者たちが、自分たちの姿に似せて創造した人間の娘たちとの性的な結びつきで、特別に優れた子供たちを産ませることができた、という証拠です。
彼方の惑星にいる者の目から見ると、このことは危険極まりないものでした。
地球上の科学の進歩が桁外れなものとなったため、彼方の惑星の者たちは、彼らの創造したものを破壊することに決めました。(「地球人は科学的に創造された」p26より)
この部分は、伊邪那美と伊弉諾が作ってきた世界を取り戻したいと考えたように、地球にいたルシファーたちが地上の楽園をもう一度作りたいと試行錯誤して頑張ったことに思えます。
だとするとここでは伊邪那美は創造された人間たちを表し、伊弉諾はその人間たちと地球で暮らしていたルシファーたちだと考えることもできます。
しかし一度でも科学を教えられた人間は、そのままでは永遠の命を与えるわけにはいかないのです。
つまり人間に「死」を与えたということです。
永遠の命は人間そのものの能力でも体質でもなく、宇宙文明の技術だからです。
このことを伊邪那美が黄泉の国の食べ物を食べてしまったためにもう地上の世界には戻れない、という意味で表しているのではないかと思います。
そしてルシファーたちがもう一度人間たちと地上の楽園のような世界を作ろうとしなければ、つまり人間に科学技術を与えて進歩させ、地球の世界を発展させようとしなければ、この後に起こることは起こらなかったのです。
それは、伊弉諾が死んだ伊邪那美にもう一度会いたいと思わなければ、黄泉の国は古事記に登場しないということです。
黄泉の国とは
追放されたルシファーたちと人間が作った世界は最初の楽園とは程遠く、創造主の惑星からすると危険な世界にしか見えないため、破壊することに決められました。
そうしてその地上の世界はノアの大洪水によって破壊されたのです。
ノアの大洪水とは「地球人は科学的に創造された」によれば、創造主の惑星政府が地球に核ミサイルを打ち込んでその世界を破壊したことであり、そのためこの地球には核による汚染が広まってしまいました。
これを古事記では黄泉の国で伊弉諾がこっそりのぞいて見てしまった、体からうじが湧き、さらにたくさんの雷が出ていた伊邪那美の姿で表しているような気がします。
体からうじが湧くというのは生物の死を表し、たくさんの雷は核ミサイルによってこの地球に起きた出来事そのものを表していると思えるのです。
実際にその核ミサイルによる影響でこの地球の環境がどうなっていたのかは人間にはわかりませんが、地球上の生物全てが一気に死んでしまうようなすさまじい核爆発ですから、そこらじゅうで雷が鳴っていたと想像することはできます。
さらに「黄泉の国」という名前は黄色い泉という意味にとれますよね。
核や放射能は色で表すとすれば黄色だと思います。
たとえば核関係のマークは黄色いし、ウランを含有するイエローケーキは名前にもイエローとあるように黄色い粉末だからです。
ですから黄泉の国とは、ノアの大洪水以前の人類が核ミサイルによって創造主に滅ぼされかけたことを、伊弉諾が伊邪那美と別れたことで表しているのではないでしょうか。
そして伊弉諾が黄泉の国から逃げて地上の世界に帰ってきたことは、ルシファーが助けた人間であるノアたちが地上に帰ったことだと思います。
創造主の惑星としては全人類を滅ぼす予定だったので、黄泉の国に行った伊弉諾ももう少しで死ぬところでしたが、ギリギリ助かったのです。
エロヒムは、ノアを心に留められた……エロヒムが風を地の上に吹かせら
れたので、水が減り始めた。『創世記』8 章1 節創造者たちは放射能の検査を行って、それを科学的に分散させたあと、大気が生存に耐えられるものとなったかどうかを知るために、動物たちを外に出すようノアに命じました。それは上手くいき、動物たちはその外気の中に出ることができました。
(「地球人は科学的に創造された」p27より)
創造主たちの技術では放射能の汚染を科学的に分散させることができるようです。
これは宇宙文明の共通の技術なのだと思います。
伊奘諾が黄泉比良坂から地上に出るときに、追いかけてきた黄泉の国の軍に投げた桃の意味はまだよくわかりませんが、その桃は地上に生息していたものですから恐らく地球にあった何かではないでしょうか。
黄泉の国の軍隊が核や放射能に関係するものだとすれば、桃はそれらから人間を救う何かなのかもしれません。
黄泉の国から逃げてきた伊弉諾は、黄泉の国とこの世を繋ぐ黄泉比良坂の出口に千引の岩を置いて塞ぎます。
これはこの世とあの世、つまり生きた人間の世界と死んだ人間の世界を隔てるものです。
これは、この世界で人間が生きることと、死後の霊を分けておくものに思えます。
私が考える霊とは、生きている一人の人間の全ての記憶です。
人間の記憶は、恐らく松果体から宇宙のどこかの記録している場所に常に送られています。
人間が死んでもそこに霊が保存されているのは今だけです。
つまり、この世界が終わって最後の審判が行われるときまでです。
そして最後の審判がまだ行われない現在に、必ず最後の審判があることを思い出すきっかけになるものは虹です。
この虹が地球に出る間は、人間は死んだらそのままなのです。
ですので、この世とあの世を隔てる岩とは虹の出る仕組みであり、最後の審判を行う仕組みのことなのだと思います。
そして「創造者たち」であるルシファーたちが地上の放射能の汚染を取り除いたことが、古事記の伊弉諾の禊(みそぎ)ではないかと思うのです。
禊で生まれた神々は、ノアの大洪水の後のこの世界にルシファーたちが行ったことです。
伊弉諾が最後に産んだ天照大御神と月読命と須佐之男命は、その後のこの世界のことを表しています。
黄泉の国とは今の世界の人が死んだら行く場所なのではなく、死んだ人の霊の保存を意味するもので、黄泉の国の伝説は大洪水以前の地球と人類のことと、それらをどうにか助けようとしたルシファーたちのことなのだと思います。
人間が科学や知恵を与えられたことによって、この地球の人間にはとんでもない試練が与えられましたが、見方を変えれば進歩するチャンスが与えられたともいえます。
つまり努力次第で創造主や宇宙文明の存在と同じ存在にもなれるということです。
もし最初から人間に科学が与えられなかったなら、今の人類の文明は存在していないのです。
このチャンスは人類を愛していたルシファーたちがそのきっかけを与えてくれたといえます。
以上が、私が黄泉の国について考えたことです。
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