聖霊とは誰もが持っているもの Vol.133

キリスト

聖書に書かれているもので、私がいまいちよく理解できなかったのが聖霊です。

霊については私なりに理解したつもりでしたが、霊とは基本的に違うものなのだと思います。

関連記事: 霊とは何なのか

ところで霊に「聖」が付くとどういう意味になるのでしょうか。

「聖」という文字は聖書にもあるように、「神」と関係があるのでしょう。
この場合の「神」の解釈が聖霊を理解する鍵だと思います。

というわけで、今回は聖霊について考えていきたいと思います。

聖霊は天使のようなものではない

聖霊について、聖書にはどう書いてあるのでしょう。
こちらの言葉が聖霊を理解するのに良さそうです。

あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。
あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。

(「コリント人への第一の手紙」6章19〜20節より)

上の聖書の言葉によれば、聖霊とは天使や御使いといったいわゆる天の存在ではなく、自分の体にあるもののようです。

このブログでいつも書いていることですが、聖書はほとんど事実が書かれていると私は思っています。

つまり、人間の体が「聖霊の宮」だというのは、神秘的で精神的なことを言っているだけの言葉ではなく事実なのです。

しかし見えないことなので証明ができないだけで、これは当時の人々にわかりやすく書いた真実です。

それはどういうことか、私の考えを書いてみます。

聖霊はどこかから与えられるのではない

この聖書の言葉では、聖霊が宿る「自分のからだ」はイエス・キリストを信じている人だけが持つようにも思えます。

そのため私は、聖霊とは洗礼を受けたりイエスを信じることによって天から授けられる何かの力だと思っていました。
見えないけれど確かにあるものです。

ところが聖書には、聖霊は人間にはじめからあるもののように書かれています。
もし途中から人に聖霊が入るとすると、むしろどこからどうやって入るのかが謎です。

宇宙から?
どうやって?電波で飛んでくるのでしょうか?

それだといわゆるスピリチュアル的なものに思えてしまいます。
誰でもできるわけではないような特別なイメージです。

ですが聖書にあることは、地球で生きる全ての人に当てはまることのはずです。

ならば元から誰にもあるものが目覚めたりスイッチが入るといった方が理解しやすいです。

聖霊とは何か

聖霊とは、「霊」ということから人間の中にある霊に関係があるのだと思います。

人はただの肉体ではありません。
霊だけでも肉体だけでも人ではありません。
肉体に霊が入って生きた人になります。

霊は見えないため、今の科学では実在を証明はできません。
しかし確実にあるものです。

霊は人間の肉体と結びついている、人間の中身ともいえるものです。
パソコンでいえばOSです。
今この文章を読んで考えている、その意識は肉体の中の霊によるものです。

聖霊はさらにこの霊の中にあるものだと思います。
ただし特別な霊なのでしょう。

「聖」という文字は「聖書」にもあるため、創造主や宇宙文明とも関係ありそうですが、もっと根源的なところと繋がっている感じがします。

創造主や宇宙文明が一番大切に思っているのは、この宇宙の法である愛です。
愛がこの世界の全ての元になっています。

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愛とは何か
愛とは情熱に従いたくなること

ですので聖霊とは、この愛と直接結びついているような霊ではないかと思います。
または愛そのものなのです。

その聖霊が初めからインストールされた霊を、誰もが持って生まれてきたのです。
なぜなら人間を作ったのは創造主だからです。

創造主は宇宙文明の人々なので、愛を大切にしています。
そのような創造主が創造した人間には、愛で作られた霊をインストールしてあるのです。
つまり人間は初めから完璧に作られたのです。

しかし普通の人は、恐らくこの聖霊が眠っているような、または感じにくい状態なのです。

なぜなのかはわかりませんが、それがこの地球に生まれる条件なのかもしれません。

聖霊が眠った人間が、生きていく間に自ら聖霊を目覚めさせることが大切なのでしょう。
まるで修行のようなものです。

聖霊を目覚めさせる

聖霊を目覚めさせたり感じられるようにするにはどうすればいいか。

まず、なぜ人間は聖霊を感じられないのでしょう。
感じられないようにして生まれていていることが一つの理由だと思いますが、さらにこの世の欲の罠にかかってしまい、自分へ向けた愛が大きくなってしまうからだと思います。

つまりエゴが大きい状態では聖霊はほとんど感じられないのです。
ですが無くなっているわけではないため、誰でも自分次第で聖霊は目覚めると思います。

自分に対する愛が大き過ぎると、本当の自分の声やしたい事が見えにくくなってしまいます。
なぜかと言うと、エゴを叶えるための願いの気持ちが大きいからです。
エゴからのしたい事と心から湧いてくるしたい事は違います。

心から自然に湧いてくる事には必ず愛によるものが伴っているのです。
自然に起こるものは全て愛によるものだからです。

聖書にあるその一つのヒントが洗礼だと思います。
洗礼自体に聖霊を目覚めさせる効果があるというよりも、洗礼をする状態になることがポイントです。

洗礼は現在ではキリスト教の入会の儀式のようですが、本来は神や創造主の子として生きる宣言のようなものだと思います。
実際にはもっと科学的な意味もあります。

洗礼は創造主の意志や思いを行う者になることです。

そのためにはまず、創造主の意志や思いを理解することが大切です。
創造主の意志とは宇宙文明とも同じであり、その根源は宇宙の法である愛だとわかります。

ですから創造主の意志を受け継ぐこととは、愛に生きることです。
愛とは、水が高い所から低い所へ流れるように、自分の中から湧き上がる自然な気持ちに従うことだと思います。
それが聖霊が目覚めた人の生き方です。

愛に従って生きることが、冒頭の聖書の
「自分のからだをもって、神の栄光を」
あらわすことになるのだと思います。

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