八百万の神とは Vol.100

古事記

ここ最近、愛について考えていたところ、日本の八百万(やおよろず)の神の意味がわかった気がします。

八百万の神とは日本に存在するとされている神々で、主に自然界の中のあらゆるものに宿っているといわれます。

ですので日本の人々は神の存在を信じないのではなく、むしろ多くの人は八百万の神を信じているといえます。

日本人ならこの感覚はよく分かると思います。

このような神々を崇める日本は他の国から見ると多神教ともいわれます。

聖書の神が「私のほかに神はない」(「イザヤ書 45章5節より)と言っているために多くの宗教は一神教なので、日本の八百万の神には独特の雰囲気があります。

ですが日本の人々は、宗教として神々を崇めているという意識はあまりありませんよね。
偶像も特にありません。

神を崇めるというより、その存在を意識しているという感じだと思います。

ですから神社へ行く時は宗教的に行くのではなく、祀られている神様に会いにいく感じです。

この感覚が、一神教の宗教を信じている人々にはなかなか理解しにくいのではないかと思います。

この、他の国から見ると不思議な八百万の神の正体というか、意味が何となくわかった気がするので、私なりに書いてみようと思います。

八百万の神の正体

私は都市伝説をきっかけに、聖書と創造主のことを知りました。

そこからこの世界について知り、最近やっと愛について理解できた気がしています。

そして愛が何なのかが理解できてから、ずっと疑問だった日本の八百万の神の意味が何となくわかったのです。

愛については前回の記事で書いたので、よかったらそちらも読んでみて下さい。
関連記事:愛とは何か Vol.99

愛はこの宇宙の全ての物や起こる現象に関係しています。
全ての原動力は愛によるからです。
この宇宙は愛の法則に従って動いているのです。

この地球の自然も全て愛によって保たれています。
もし愛が無かったとしたら世界の秩序は無くなり、何の意味も目的もなくなります。
愛が無ければ世界はそもそも存在しないでしょう。

物が重力によって落ちるのは愛による法則です。
草花が育つのも愛によるし、天気が変わるのも愛によってです。
物事には道理があるのも愛によるからです。
人が人を思ったり憎むのも愛によるものです。

この世界の全てが愛によって動いています。

もしも愛による自然の法則に逆らって動いたら、いつか必ず法則通りになるように細かく小さく戻り始めます。

それさえも愛による働きなのです。

このように、この世界にある自然の法則は全て愛に基づくものです。

八百万の神をとても簡単に言うと、この宇宙の自然の法則のことなのです。
これらが全て八百万の神として表されているのです。

風と桶屋の関係

物事には全て原因があって結果があります。
それは小さい事ならすぐにわかると思います。

例えば高い所から飛び降りたら怪我をする、物を投げたら落ちて壊れた、などです。

怪我や壊れたことが結果で、原因は高い所から飛び降りたことや投げたことです。
すぐに結果が出るものはわかりやすいですね。

ですが原因が遠いと、結果と結び付けて考えるのは難しくなります。
「風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざのようなものです。

今の私たちの状態は、過去の自分の行動や思考の結果です。

あの時あのお店に行ったから。
あの日、試合に出たから。
あの時あの道を通ったから。

その結果、今の私たちは無事に生きているのかもしれません。
しかしこれは宇宙の自然の法則のただの結果です。

これが八百万の神の力です。

神々の怒り

神様はよく怒ると言われるのは、どこかで自然の法則に逆らったために法則通りに戻ろうとする働きのことなのです。

実際に日本の神々が怒っていると言われるときは、自然の災害が起きたときなどです。

法則に逆らう度合いが大きいほど、元に戻ろうとする働きも大きくなります。
それは時には大きな災害になることもあるでしょう。

全てが宇宙の法則の通りに進んでいるのです。
それは愛に基づく法則です。

もし望まない結果になったとしたらそれも法則の通りなのです。
心では違う結果を望んでいたとしても、それがその時点での愛による最善の結果です。

もしも違う結果を望むなら、別の行動や選択をしないと無理なのです。
そもそもの行動が違うのです。

怪我をしないで高い所から降りるためには、上手く飛び降りるようにするのではなくゆっくり降りるか遠回りして降りればいいのです。

物を移動させる時に落ちて壊れないようにするには、上手く投げようとするのではなく丁寧に運べば良いのです。

宇宙の全ての事はこれと同じです。

たとえばある時この宇宙の法則がわかって、今の状態がその法則に沿っていないことに気づいて行動を変えたとします。

もしかするとその行動によって結果的に早く法則通りになるかもしれませんが、そうすると今度はその変えた行動の反動が起きます。
それが何かの被害になる場合もあります。

なぜかというと、法則は常に働いているので、すでに自然に法則通りになるための力が働いているからです。

例えば炭酸のジュースが瓶から吹き出してしまうのを止めようとして抑えたら、余計に周りに飛び散ってしまって被害が拡大したという感じです。

ジュースが吹き出すのは吹き出す原因からの愛による働きです。

どうせならそのまま吹き出した方が周りへの被害が少なかったかもしれませんが、結局中身は外に吹き出して少なくなるのは同じかもしれません。
また、瓶を振って吹き出すかもしれないことに気づけたなら、飲むのが遅くなるとしても少し時間をおけばジュースは吹き出さないで無事でしょう。
どちらが良かったのかは、どちらも経験してみないと誰もわからないことが多いです。

このように、物事は放っておくと自然に自然の法則の方向に向かうようになっています。
一見良くないように思える事でもです。

このような自然の法則には何かの力が働いているように思えるため、八百万の神の力と言われているのでしょう。

昔の人々はこの自然の法則を理解していたのかもしれません。
または、私たちの創造主に教えられた可能性もあります。

そして八百万の神の中でも、この世界を創造したとされる神々は神世七代(かみよななよ)などといわれます。
ただ、神世七代はただの自然の法則による力とは少し違うと私は思っています。

これについてはまた、別の機会に書いてみたいと思います。

関連記事: 日本の神話には聖書が隠れている Vol.104

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