学校生活に愛はあるのか Vol.153

世の中について

今のウイルス感染症の騒ぎによって、あらゆる分野でほころびが出ています。
以前にも書きましたが、その原因は始めから無理のある仕組みだったからです。

関連記事:なぜ今この世の中は混乱しているのか Vol.141

今回はその中でも子供たちへの教育について書いてみようと思います。

現在はウイルスの脅威が少し収まってきているように見えるため、緊急事態宣言は解除され、学校もこの6月から再開されています。

私は今回のことがきっかけで学校の仕組みが変わっていくと思っています。
もちろん急には変わりませんが、少しずつ変わるでしょう。

もしもここで何も変わらずに全く以前と同じ体制が続いていくとしたら、必ずまた別の形で変わらざるを得ない何かが起こると思います。

なぜ今の学校の仕組みが変わらざるを得ないのかというと、学校で学ぶ主役である子供たちに対する愛が小さすぎるからです。

これは今だけの話ではなく現在の学校教育のシステムになってからずっとですが、この先の時代は愛のないものはだんだんなくなっていくと思っています。
その中の一つに現在の学校のかたちもあります。

自由な時間はあるか

学校生活のどんなところが愛が小さいのかというと、一つは子供たちの多くの時間を学校に縛り付けているというところです。
朝早くから夕方まで、学校の時間割に沿って過ごすことをほぼ強制しています。

登校するのは強制ではないといわれても登校するのが当たり前で、休むと欠席として扱われ、成績に影響する場合もあります。
それに登校しないと不登校といわれますよね。
だからみんな登校するのです。

登校できない子には強制はしませんが、他の大多数の子は本当は嫌だと思ってもできれば従うしかないのです。
学校とはそういった場所だからです。

ですが強制することには相手に対する愛はありません。

休み時間は自由とはいってもとても少ない時間なので、トイレに行ったり次の授業の準備をしているうちに終わってしまい、自由時間とはいえません。

そして給食は時間内に食べ終わらない場合はもっと食べたくても食べられません。
食べるペースは人によって違うのに。

そこまでして何のために学校に行っているのでしょう。
もちろん勉強なのですが、こんなにがちがちに子供たちを時間割で縛って一日の多くを学校で過ごす必要はないのではないかと思います。

子供たち自身が好きでそうしているならそれはいいと思います。
昔は学びたくても学校に行けない子がいたり、世界には今でもそういった子がたくさんいるのは事実です。

ただそれは、基本の学びすらできない子供たちの話です。
そういった子供たちでさえ、毎日何時間も学校に縛られていたら勉強がしたいという楽しみをもち続けられるでしょうか。

子供たちの貴重な時間をほとんど学校生活に充てているため、子供自身も何が好きか、何を本当に学びたいのかさえわからない子が多いと思います。

それなのに将来の夢を書かせられたりします。
ですから最近は子供たちのなりたい職業の上位にYouTuberが入っているのでしょう。
なぜならYouTuberが自由に見えるからだと思います。
YouTuberになって本当にやりたいことがあるのかもしれませんが、ただ自由そうに見えるからという理由なら、それは自由を求めているからです。

全員が一緒に学ぶこと

学校生活が子供への愛が小さいもう一つの原因は学習内容です。

誰もが同じ教科書の内容を勉強します。
それは国が決めた学習指導要領の内容に沿って学習するためです。
学習指導要領は子供達が学ぶ必要があると思われるものを効率よく学べる一つの指針になります。

そのシステムはテストや受験で統一した問題を使うことができるため、指導者にとって便利なものでもあります。

また、毎年決まった教材を使うためもあるのでしょう。
つまりお金の問題です。
これはすでに教育のシステムにしっかりと組み込まれているため、変えることは難しいのでしょう。

ですがそれは子供たちへの愛からではなく管理者のためです。
決まった教材を使うことで、子供たちの競争を判断しやすくしています。

そのため勉強の内容はどちらかといえば生活に役に立つという視点ではなく、問題として出題しやすい内容を勉強することになります。
ですのでテストは理解度を測るためとは言っても、実際には正解が重視になっています。

しかしこの方法で成績を決めていると、学習の内容をきちんと理解しているかより、どれだけ正解率が高いかだけで成績を判断される恐れがあると思います。

それでは学んだ内容を根本的に理解しているとは言えないし、その学ぶべきことを応用して考える力も付かないでしょう。
それに正解すればいいなら、正解できるテクニックだけを身に付ける子もいるでしょう。
それでは長い期間勉強をしている意味があまりありません。

学習指導要領を使うなら、その項目の正解率ではなく理解度を測るようにする必要があると思います。

それに勉強が本当に子供のためというのなら、学習するために必要な文字の読み書きや基本の計算方法だけを身に付けさせたら、あとは子供自身が学びたいことを自由に好きなだけ学べばいいと思うのです。
その中で歴史が好きなら歴史を学べばいいし、数学が好きなら数学を学べばいいのです。

ですが学校はそうではありません。
決まった内容を誰もが同じように学ぶだけです。

興味がない教科の授業をいくら受けても、きっとその子の中にその教科の知識は植え付けられないと思います。
学校の勉強のゴールともいえる高校や大学入試の試験内容を見ると、どれだけ教科書の内容を覚えているか、理解しているかというものです。

たとえ理解していたとしても、いじわるな問題に引っかかって減点されたら競争に負けてしまいます。
今では小学校や中学校から受験対策をする子も多いので、さらにテストの正解率を上げるための勉強という名の訓練をしている子も多くなっています。

その対策のためにさらに塾に通ったりして試験のテクニックを身に付け、自由に自分の興味のあることを考える時間はなくなります。

制限の中でも愛はある

今の学校のシステムは全く子供たちへの愛がないわけではないとも思います。
例えば子供たちが学校で少しでもわかりやすく楽しくなるように授業を工夫してくれている先生方の心です。

その他には、美味しくて栄養のある給食を考えてくれることや、子供たちの学校生活が楽しくなるように考えられている多くのことです。
それが学校での子供たちに対する愛の部分です。
これなら愛が小さすぎるとはいえないような気もします。

ですが残念ながら、子供たちの自由が制限されているだけですでにかなり愛は小さいと思います。
自由が制限された中で子供たちへ目一杯の愛を注いだとしても、注げる愛にも限界があります。

例えば広いエリアの中で自由に使えるのはとても小さい一角だけだとします。
その中でならどんな事も自由にできるとしても、全部のエリアを使うことに比べたらできることに限界があるような感じです。

人にとっての愛とは思いやりの心ですが、自由を与えることは思いやりであり大きな愛なのです。

子供たちだけでなく、人間が自由を求めるのはそれが自然な気持ちだからです。
自然に沸き起こる気持ちは愛から来るのです。

実際に子供たちは夏休みや冬休みなどの長期休みが大好きです。
それは毎日学校に行かずに自由に過ごせるからです。

そんなのは当たり前だと思うかもしれませんが、ではなぜいつもそうしてあげないのでしょう。
それは学校があるからですよね。
今の教育を受けさせる義務があるからです。

義務教育は大人が子供に教育を受けさせる義務があるということです。
決して子供が学校に行かないといけない義務ではありません。

学校に行かせるだけで教育を受けたことになるという今のシステムにも限界があるように思います。

学校があると子供たちはいつも自分のしたいことばかりを自由にできないのです。
その理由は勉強をしなければならないからです。
家に帰っても宿題があります。

ですから今の学校生活は子供たちにとっては愛がとても小さいのです。

愛に則っていないものは消滅する

以前にも書きましたが、この宇宙の基本の法則は愛です。
その法則に従っていないものは、いつか必ず法則の通りに戻ろうとする力が働きます。
それが自然だからです。

今のこの時代は人々の意識が愛に目覚め始めています。
これについてはまた今度書きたいと思いますが、今はそういった時代だからなのです。

ですのでもしも何かが愛に則っていないまま続いているとするなら、それはいつか消えてしまうでしょう。
消えないためには愛に則った形に変えるしかないのです。

子供たちにとって学校生活を愛のあるものにするとすれば、まずは強制的に登校することをなくすことから始めるのが一番大事なことだと思います。

勉強というものを本当の意味での子供主体にすればいいのです。

今のこの世界は悪魔のシステムに支配されているために現在の学校の仕組みが続いてきましたが、今は多くの人々の意識が愛に傾き始めているため、この学校のシステムもそろそろ変わっていくと思います。

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