キリストの再臨とは何か Vol.137

キリスト

イエスは今から約2000年前に生きていた人物ですが、そのイエスがこの世界の終わりのときに再臨するといわれています。

再臨とは再び現れるということです。
そんなことが本当に起こるのでしょうか。

イエスは一度十字架にかけられて死に、その3日目に復活して40日後に天に昇っていったと言われています。
ですから、これを信じるならばイエスは生きて天に行ったので、また現れることは考えられなくもないです。

たとえ死んでいたとしても、創造主や宇宙文明の科学ならば肉体に霊を入れて再生することは簡単にできるでしょう。

しかし普通に考えれば、イエスの再臨は何かのたとえだとか、信じている人々の心の中で起こることだと思うでしょう。
または死後に感じるものなどです。

もしそうならば、実際にイエス・キリストがこの世界に再び現れるわけではないということになります。

少し前の私ならきっとそう思っていたでしょう。
ただ、その頃は「キリストの再臨」などという言葉すら知りませんでした。

そして今、聖書について知るにつれて聖書の内容は事実であると思えるため、キリストの再臨も実際に起こることなのかもしれないと思うようになりました。

今回はイエス・キリストの再臨について考えてみたいと思います。

キリストの再臨とは

イエス・キリストの再臨とは、聖書によればこの世界の終わりのときに起こることです。
本当にこの世界の終わりのときにイエスが現れるとすると、どういうことなのでしょう。

空から宇宙船などに乗ってきて、そこから降りて来るのでしょうか。
そうかもしれませんが、何となくしっくりきません。
なぜかというと、それではほとんどの人が信じないからです。
見たことを信じる人でも、空を飛ぶ円盤や宇宙船から誰かが下りてきたと思うだけです。

ではここで、キリストの再臨のことだと言われている聖書の箇所をご紹介します。

1:7見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。

(「ヨハネの黙示録」1章7節より)

19:11またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。

(「ヨハネの黙示録」19章11節より)

この聖書の箇所のどこにも「イエス・キリスト」とは書いてありません。

ですが、「彼を刺しとおした者たち」というのはイエスを十字架に架けた人たちやそのイエスのわき腹を刺した人という意味だと思うので、「彼」はイエスのことです。
またはイエス・キリストを表すものと考えられます。

ではイエス・キリストを信じている信者の前だけに現れたり見えるということでしょうか。
そうならばイエスを信じている人の前だけに現れる印象です。
しかし「彼を刺しとおした者」にも見えるようですから、イエス・キリストを全く信じていない人の前にも現れるようです。

キリストの再臨については、旧約聖書や新約聖書の何箇所にも書かれていることから、何かのたとえではなく、実際にイエスが現れるのかもしれないです。

しかし現実に世界中のすべての人の前に1人の人物が現れることは不可能です。
一人一人の前に順番に現れるのも違う気がします。

だからといってキリストが再臨してもほとんどの人が気がつかないのなら、聖書に書いてある意味がないようにも思います。

ただ、イエスは同時に遠く離れた場所にいる人々の前に実体として現れることはできました。

また、宇宙文明の技術ならば地球の2000年後の未来に現れることもできるのかもしれません。
宇宙には地球のような「時間」という概念はないそうですからね。

「アミ 小さな宇宙人」の中で、アミがこんなことを言っています。

「地球人は、あまりにも距離と時間に制約されすぎて生きているからね……」
「それ、どういうこと?」
「きょう旅行に出て、きのう帰るということもできるんだ」

(「アミ 小さな宇宙人」文庫版p98より)

また、イエスはキリストであるということから、イエスは創造主や宇宙文明の象徴ととらえることもできます。

つまりイエス・キリストの再臨とは、この地球の統治者である創造主や宇宙文明がいよいよこの世界を終わらせることとも考えられます。

現実には何が起こるのか

この世界の終わりに起こることといえば、このブログでは何度も書いている最後の審判です。
最後の審判は、人が死んだときに一人一人に起こることなどではありません。
この現実の世界で実際に起こることです。

そのときに起こると考えられるのが、太陽の光の変化です。
その太陽の光が審判の光になるのではないかと私は思っています。

「天が開かれ」るとは、この地球を太陽の裁きの光から人間を守っている何かが消え、本当の光が入るようになるということだと思います。

イエス・キリストが再臨するのが最後の審判のときなら、この世界の人間を裁くためです。

ですが太陽の光が変化して裁きの光になるとしても、その光をキリストだとは誰も思わないし、その自然現象をキリストの再臨というのは少し無理があります。

最後の審判が太陽の光による自然現象だとすれば、その光が、イエスが現れて裁かれるように感じるだけなのかもしれません。

人によってはきっと閻魔大王に裁かれるように感じるのです。
つまり認識の違いで、そのときに見えるもの感じるものは人それぞれ異なるのではないかと思います。

本当にそうなら、キリストの再臨といっても誰もが同時に同じ姿のキリストを見るというのはありえないことです。

とはいえ、実際に最後の審判が始まってしまったらそんなことを考える余裕はないし、そのときに何が自分に起きているのかさえわからないと思います。
全てが終わってから、ああ、あれが最後の審判だったんだと気が付くのでしょう。

そしてその時がいつになるのかは全くわかりません。
ただ今は終わりの時なので、いつでも起こる可能性があることだけはわかります。

この時代に気を付けないといけないのは、たくさんの偽キリストが現れるということです。

24:4そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。 24:5多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。

(「マタイによる福音書」24章4節~5節より)

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