安息日とは何か。現在も人間が守るべき休日なのか。Vol.35

キリスト

旧約聖書に書かれている、守るべき規律の中でかなり重要なものの一つに、安息日(あんそくじつ・あんそくび)があります。

安息日は、旧約聖書の創世記に書かれているものです。

こうして天と地と、その万象とが完成した。 神は第七日にその作業を終えられた。
すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

(「創世記」2章1節〜3節より)

神が天地創造をした後に休んだからだそうです。
なるほど。

……ちょっとよくわからないので、安息日についてWikipediaで調べてみると次のように書いてありました。

旧約聖書の『創世記』で啓典の神が天地創造の7日目に休息を取ったことに由来し、何も行ってはならないと定められた日とされている。週の7日目と定められており、土曜日にあたる。旧約聖書の1日は、基本的に日没で区切るので、「土曜日」というのは深夜を一日の始まりとする現代の時法でいえば金曜日の日没から土曜日の日没までの間を言う。一方で、バビロニアの七曜制からきたものとする見方もある。

(Wikipediaより)

参考リンク:Wikipedia

神が休んだから、人間は何も行なってはいけない日のようです。
この説明を読んでも、やっぱり私にはいまいちよくわかりません。
安息日の詳しい日も基本的には金曜日の日没から土曜日の日没までですが、捉え方が様々ではっきりわかりません。

ユダヤ教やキリスト教の人にとっては、神がそう決めたのだからそうなのだ、でもいいのかも知れません。

ただ、私は宗教を信じて聖書を信じているわけではありません。
信じているといえば「真実を告げる書」を今のところ信じています。
その中で考えると、安息日には科学的な、または人間の仕組みとか、世界の仕組みなどと関係があるのではと思います。

しかし「真実を告げる書」にも安息日についての具体的なことは書いてありませんでした。
今回はこの安息日について私なりに考えてみようと思います。

聖書での安息日

具体的に「安息日」と聖書で出てくるのは「出エジプト記」でした。
エジプトを出て歩き続けたイスラエルの民は、お腹がすいてしまい、モーセに訴えます。

モーセが神にそのことを伝えると、神はマナというパンのような食べ物を毎日降らせました。
マナは一日の一人分の量が決められ、各自その量だけをとるように言われます。

このときに安息日が出てきます。

モーセは言った、「きょう、それを食べなさい。きょうは主の安息日であるから、きょうは野でそれを獲られないであろう。 六日の間はそれを集めなければならない。七日目は安息日であるから、その日には無いであろう」。ところが民のうちには、七日目に出て集めようとした者があったが、獲られなかった。 そこで主はモーセに言われた、「あなたがたは、いつまでわたしの戒めと、律法とを守ることを拒むのか。 見よ、主はあなたがたに安息日を与えられた。ゆえに六日目には、ふつか分のパンをあなたがたに賜わるのである。おのおのその所にとどまり、七日目にはその所から出てはならない」。こうして民は七日目に休んだ。

(「出エジプト記」16章25節~30節より)

神は六日間はマナを降らせますが、七日目は安息日なので降らせません。
そのため、六日目に七日目の分を入れた2倍の量を降らせました。
ちゃんと考えてくれています。

また、その後に神からモーセに伝えられた十戒の中の一つにも、安息日についてあります。

安息日を覚えて、これを聖とせよ。
六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。
七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。
あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。
主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。

(「出エジプト記」20章8節~11節より)

また、こちらには安息日を守らずに働いてしまった人のことが書かれています。

イスラエルの人々が荒野におるとき、安息日にひとりの人が、たきぎを集めるのを見た。そのたきぎを集めるのを見た人々は、その人をモーセとアロン、および全会衆のもとに連れてきたが、 どう取り扱うべきか、まだ示しを受けていなかったので、彼を閉じ込めておいた。
そのとき、主はモーセに言われた、「その人は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で撃ち殺さなければならない」。
そこで、全会衆は彼を宿営の外に連れ出し、彼を石で撃ち殺し、主がモーセに命じられたようにした。

(「民数記」15章32節~36節より)

なんと、石で撃ち殺されてしまいました!
神が定めた安息日だから、それを守らなかった人は殺されてしまうのでしょうか。
なんだか厳しすぎます。

しかし、そのくらい安息日を守ることは重要なことだったとわかります。
ただ、なぜそこまで重要なのかがとても気になりました。
そしてなぜ神は必ず休むのか、ということもです。

安息日は働く人の休日といっていいと思いますが、ただ、疲れるから休むというより、休まなくてはならないという強い印象があります。

現代に安息日はないのか

現在でもユダヤ教やキリスト教には安息日があるようです。

さらに調べてみると、キリスト教でも安息日を守らなくてよいところもあります。
キリスト教はイエスの定めた律法を守ればよい、という考えからです。

ですのでイエスが処刑されて復活し、創造主と天に昇ってからは、安息日は守らなくてよいという考えがあるようです。

それに対し、そんなことはなく、現在でも安息日を守ることは大切だという考えもあります。

そんなわけで、現在でもどうしたらいいのか、はっきりとわかってはいないようです。

ここで、このことについてのヒントと思える新約聖書を見てみます。
これはイエスの言葉です。

わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。

(「マタイによる福音書」5章17節〜18節より)

この中で言われている律法とはモーセから伝えられた十戒などの事です。

ということは、イエスは十戒を無しにするために来たとは言っていません。
成就するために来たと言っています。

ですから、十戒に含まれる安息日は無しになってはいないということになります。

「真実を告げる書」には、この律法の十戒についての記述がありました。

それから『出エジプト記』の20章では、いくつかの規則が述べられています。
なぜなら、イスラエルの民はとても原始的な水準にあったので、道徳面と、特に衛生面では、規律を必要としていたのです。様々な律法の中にそれが述べられています。 創造者たちは、この規則をモーセに書き取らせるために、シナイ山にやって来ました。

(「真実を告げる書」p32〜33より)

とあるので、十戒には当時のイスラエルの民の道徳面と衛生面で特に気をつけるべきことが書いてあるのです。

当時のイスラエルの民は原始的だったようなので、人を簡単に殺したり、騙したり、姦淫したりしていたようです。
しかしそれは人としてダメなことだとモーセがただ人々に伝えても、聞く人はいなかったのでしょう。
それにイスラエルの民には国としての法律などもありませんでした。

そのため、イスラエルの民が何か人として悪いことだと思われることをしたときでも、どうすればよいかという明確な決まりが無いので、ちょっとしたもめごとがあると、人々はいちいちモーセにどうしたらよいか、どう裁くべきかを聞きに来ていました。
そしてモーセはどう裁くべきか、神にその都度聞いていたのです。

そのことを心配したモーセの舅とのやりとりが「出エジプト記」に書いてあります。

あくる日モーセは座して民をさばいたが、民は朝から晩まで、モーセのまわりに立っていた。
モーセのしゅうとは、彼がすべて民にしていることを見て、言った、「あなたが民にしているこのことはなんですか。あなたひとりが座し、民はみな朝から晩まで、あなたのまわりに立っているのはなぜですか」。
モーセはしゅうとに言った、「民が神に伺おうとして、わたしの所に来るからです。 彼らは事があれば、わたしの所にきます。わたしは相互の間をさばいて、神の定めと判決を知らせるのです」。
モーセのしゅうとは彼に言った、「あなたのしていることは良くない。 あなたも、あなたと一緒にいるこの民も、必ず疲れ果てるであろう。このことはあなたに重過ぎるから、ひとりですることができない。 今わたしの言うことを聞きなさい。わたしはあなたに助言する。どうか神があなたと共にいますように。あなたは民のために神の前にいて、事件を神に述べなさい。

(「出エジプト記」18章13節~19節より)

モーセの舅が創造主に訴えてくれたので、創造主は対策を考えてくれました。

創造主はイスラエルの人々をシナイ山に集めてイスラエルの民を恐れさせ、モーセに十戒を伝えるところを見せ、人々にこの事を守らせるようにしたのです。
その内容は、具体的に人としてしてはいけないことなどについてです。

ですから、十戒は当時のイスラエルの民のための律法ですが、私たち現代の人間にとっては当たり前のことなのです。
人として当たり前のことを守らなくて良いことにはなりません。

その十戒の中に安息日があるので、安息日もやっぱり守るべきことなのでしょう。

しかし、やっぱり気になるのは、なぜ安息日を守るべきなのか、です。
特に現代では休日はカレンダーでは決まっていても、職種によって休める日はバラバラです。
これでは安息日に休める人ばかりではありません。
こういった事もあって、一部では安息日は無くなったといわれるのかも知れません。

安息日の創造主

十戒は人間が守るべき基本的な律法ですが、安息日については守れない人も現代には多いです。
ユダヤ教徒やキリスト教徒ではない人にとっては、全く無関係のことに思えるし、多くの人はそう思っていると思います。

実際に守っていない人が多いですが、その人は罪になることはなく、悪い事が起きるということもないと思います。

もしも安息日が人間のためだというなら、別の日に割り当てて代わりに休むことでも良さそうです。
でもそんなことはどこにも書いてありません。

しかし旧約聖書の時代からずっと安息日は変りません。
このことから、現在でもユダヤ教徒やクリスチャンは安息日を守っています。

そこで安息日にはどんな事があったかを、聖書を参考に見てみると、まるで神がいないようです。
例えばマナを降らせるとき、6日目には2日分降らせ、次の日は神がいません。

安息日は神の休日でもあるからでしょうか。
しかしどこに行ってしまうのでしょう。
ぐっすり眠っているのでしょうか。
神は全能なので、休みなどは必要としないとも言われるのに。

人間のための休日なら、神がいなくなる必要はないのではないでしょうか。
そこまでしないと人は休まないから?

しかし、それで安息日に仕事をしたから殺すべきだというのは、何か変です。
聖書の神は横暴だと言われるのも分かります。

安息日に仕事をした人が殺されたのは、創造主から十戒を与えられる以前だったので、具体的にどう裁くべきか決まっていなかったためでしょう。
それでイスラエルの民は、神からの言葉を守らないことは重大な罪だと思い知らされたのです。

安息日を守るべき理由

よく考えてみましょう。
どうしても神と言われた創造主は7日に1度いなくなるのです。

いなくなるというか、連絡が取れなくなるという感じです。
または連絡は取れても、創造主の助けを得られないといった感じです。
ということは、何か電波の関係ではないかと思います。

それが創造主たちの遠い惑星となのか、それとも地球の近くにある創造主たちの基地からなのかは分かりません。
とにかく、安息日には何の連絡も取れない可能性が高いです。

そのために、私たち人間は出来るだけ何もしない方がいいと言われたのかもしれません。
とくに人間同士の問題が起こることがないようにです。
その間に何かが起こっても、創造主とは連絡が取れないからです。

創世記で創造主たちが地球上に陸地などを創造したとき、7日目に休んだのは、もしかするとそういった理由かもしれません。
地球上にいる創造主でも、創造主たちの惑星や基地とうまく連絡が取れないため、その日だけは安全のために何もしなかったのです。

だから人間の安全のためだったのでしょう。

当時のイスラエルの民には、いつも創造主が近くにいたか、預言者が連絡をとっていました。

当時の人たちは現代の人と比べるととても野蛮でした。
ですので、創造主と連絡が取れなくなるのは大変なことだったのだと思います。

現代は、創造主と直接連絡を取っている人はいないと思うので、安息日は関係ないとも言えるかも知れません。
「真実を告げる書」の著者のラエル氏でも、いつでも連絡してはいないでしょう。

しかし、私は聖書の次の部分が気になります。

あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。

(「マタイによる福音書」24章20節〜21節より)

これは大艱難といわれる事が起こるときについてのイエスの言葉です。

聖書は喩えで話される事が多いので、これも喩えかも知れませんが、それでも安息日に大艱難が起こるのはさらに酷いことだと言っています。

とすると、イエスがいたこの時代よりもさらに未来の、大艱難が起きる恐れのある終末の時代でも安息日はあることになります。

もし安息日に大艱難が起こっても、人々は休むのが正しいから、イエスはこう言ったのでしょうか。
それとも創造主が休んでいるから、創造主を信じているユダヤ教徒やクリスチャンでも助けることができないからでしょうか。

そんなことはないと思います。

それはきっと、どうしても創造主と連絡が取れない日だからです。
よりによってそんな日に大艱難が起こったら、泣きっ面に蜂という感じなのでしょう。
そんな軽いものじゃありませんが。

では安息日には創造主の助けがないということになるのでしょうか。

ここで、聖書のこの言葉に注目です。

人の子は安息日の主である」。

(「マタイによる福音書」12章8節より)

新約聖書での人の子とは、イエスのことです。
イエスは安息日の主なのです。

つまり創造主と全く連絡が取れない安息日には、イエスが創造主の代わりになるのか、どうにかして創造主と連絡を取ってくれるのかも知れません。

これが安息日が無くなったと言われる一つの理由でもあるのでしょう。
安息日は無くなった訳ではなく、イエスを通して創造主と連絡が取れるようになったということなのです。
きっと。

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