死と最後の審判について Vol.78

世の中について

今回は死について、私が考えていることを書いてみようと思います。

私はこれまで、死というものは恐ろしいもので、人間は死んだら終わりだと考えていました。

死後に生まれ変わることはあるかもしれないけど、今の記憶は全て忘れているから、今の自分というのは結局死んだら終わりという感じです。

しかし今は、天国や地獄といわれるものは存在し、死んだら終わりではないことがわかりました。
私が宗教に入ったとかスピリチュアルに目覚めたというわけではありませんよ。

これについては確実な証拠はどこにもないし、この世界や宇宙にはこれが真実だという一つの答えは無いのではないかと最近思っているので、私の中での一つの考えとして読んでください。

例えば一つの事が、大きな世界でも言えるし小さな世界にも言えたり、物理的にも精神的にも当てはまるということがあるからです。

日本は世界の縮図だという説もその1つです。
すごく不思議なことですが、調べれば調べるほど世界にはこんな事が多いことに気が付きます。

ですから、今回の記事はある一つの視点として書いていきたいと思います。

死んだら生まれ変わる?

一般的に現在のこの人間の世界では、死ぬことは怖いことですよね。
だから人は、どんなに幸せだと感じても欲しい物を手に入れても、死ぬことの恐怖からは逃れられないのが現実です。

人生に満足していて死んでも悔いは無いと思っても、死というものは別れなどの暗く悲しいイメージでしょう。

そのために多くの人は死なないように気を付けたり、できるだけ長生きすることに価値を置くという考えがあります。

私たちがこう考える理由は、人は死んだら終わりだと思い込んでいるためです。
だから死ぬまでの1度きりの人生を思い切り楽しもうという人が多いと思います。

最新のテクノロジーでは、死を乗り越えるための技術も開発されています。
人体を冷凍保存して、テクノロジーが進歩するまで眠るという方法などです。

VRの世界に意識を移植するのは、その中の1つの案になっていると思います。

これらの技術が、今の人間の世界での希望の光なのです。

ところで「死んだら終わりだと思い込んでいる」ということは、逆に人は死んだら終わりではないのか?という希望が浮かんできますよね。

確かに死んだらこの肉体は終わりなのですが、実は宇宙の進んだ文明では、死んだら次の肉体で新たに生まれるというのが普通の事なのです。

それもこの記憶を持ったままで、です。
それなら新しい体で続きの人生を送れるので、死んだら終わりという概念は無くなります。

携帯電話に例えると分かりやすいです。
機種を変更しても、新しい携帯に中のデータを移行すれば、それまでとほとんど変わらずに使えますよね。

しかし、これは宇宙の進んだ文明の世界の生命の事なので、残念ながら今の地球の人間ではまだ適用できない事なのです。

では今の人間は死んだら記憶はなくなるけど、生まれ変わって新しい人生が始まるのでしょうか。
私も子供のころ、人は死んだら生まれ変わるとよくいわれました。
それなら死ぬことへの恐怖は軽くなるような気もします。

しかし現在の地球の人間は、死んだら自然に次の体で生まれ変わるようにはなっていないのではないかと私は思います。

それはどういうことか、次の章で説明してみます。

地球の人間の死とは

私達は、現在は私達人間を作った創造主や宇宙の仲間に監視されている状況です。
地球に現在の人類が創造されてからずっとです。

その理由は、今の地球は宇宙から見ると未開の文明の惑星だからです。
ですから監視というより、両親やたくさんの大人から見守られている子供という感じです。

この現在の地球には、死んだら地球の人間のために用意された惑星に再生されている人がいます。
しかし、全ての人ではありません。

生きている間に創造主の意志を理解して洗礼やトランスミッションを受け、その意志を実行した人か、創造主の存在を知らずに人類の進歩に貢献した人です。

そこで再生された人は、地球より一足先に宇宙の進んだ文明の仲間入りをすることになります。
つまり、その人たちにとって死はもう恐ろしいものではなくなっています。

では、その他の洗礼やトランスミッションをせず、人類の進歩にも特に貢献しなかった人は、死んだらどうなるのでしょうか。

これは「地球人は科学的に創造された」にははっきりと書かれていないので確実なことは言えませんが、聖書にあることを参考にしてみます。

しかし、その時あなたの民は救われます。すなわちあの書に名をしるされた者は皆救われます。 また地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥と、限りなき恥辱をうける者もあるでしょう。

(「ダニエル書」12章1節〜2節より)

「あの書に名をしるされた者」が人類の進歩に貢献した人たちで、創造主の惑星で再生される人のことです。

そして
「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。」
とあるのが、すでに死んでいる人やこれから死ぬ人で、創造主の惑星では再生されなかった人の事です。

ですから、第一に優先して再生されるのは人類の進歩に貢献した人で、ひとまず別の惑星で過ごしています。
それが天国と言われている場所なのでしょう。
次に再生されるのは、それ以外の人達です。

ということは、現在の地球では一度死んだ人は生まれ変わることなく「その時」まで眠っているのです。

たとえ肉体が死んだとしても、創造主のテクノロジーでは1つの細胞があればその人を再生できます。
この地球にその人の骨の一部でも何かのかけらでもあれば、「その時」にその魂といっしょに再生されるのです。
再生された人々はこの地球で生きた記憶は持って再生されると思うので、一度死んだ人たちと再会できることになるでしょう。

だから肉体は死んでも、本当はその時まで眠っているだけなのです。

どちらを選ぶかは自由

これが本当だとすると、「地のちりの中に眠っている者」はものすごい数になると思うのです。
現在の地球に生きている人間の数でも70億人いるのに、これまで死んだ多くの人が再生されるとしたら、です。

しかし、地球で生きていたすべての人が再生されても、そのすべての人が新しい地球に住めるわけではないことが、このダニエル書を読むとわかります。

「恥と、限りなき恥辱をうける者」もいるのです。
これがどういうことなのかは今は誰もわからないと思いますが、地獄といわれるものの可能性はあります。

地獄は一つの場所ではなく、ある概念や喩えなのかもしれません。
このことについては、長くなるのでまた別の記事で書いてみようと思います。

というわけですので、「その時」にはこの地球に生まれて死んだ多くの人が地球で一度再生されるのです。
天国と言われる、創造主の惑星で再生された人以外の人達です。

ただし、それはアダムとイブ以降の全ての人ではなく、ノアの大洪水の後の人々ではないかと思います。

そう思う理由は、ノアの大洪水では一度全ての生命を創造主がリセットしたはずだからです。

そして「その時」とは、地球が未開の文明を卒業して宇宙の進んだ文明の仲間入りをするときです。
正確にはその直前でしょう。

その時になるまで、誰が新しい地球に住めるか、または「恥と、限りなき恥辱をうける者」となって別の場所に移るのかは決まっていません。

というのは、ぎりぎりになって人類の進歩に貢献することができたり、創造主の意志を理解して実行できる人もいるからです。

どちらになるかの振り分けは、私たち地球の人間の世界が宇宙の進んだ文明の仲間入りをするまで続きます。
ですから、死ぬ直前まではまだ自分の心と思いや行動で運命を変えることはできるのです。

しかし現在の地球のままでは、この新しい文明の地球に住める人はかなり少なくなると思われます。
私も新しい地球には住めるかどうかわかりません。

これが、聖書での最後の審判なのだと思います。

2つの道

ダニエル書の「その時」は、地球が宇宙の進んだ文明の仲間入りをする時ですが、それは2つの道のうちのどちらかの方法で実現します。

一つは、地球の科学技術に精神レベルが釣り合わなくなり自分たちで自滅してから、創造主や宇宙の仲間たちによって実現する道です。
科学技術と精神レベルが釣り合っていないというのはまさに現在の地球の状況です。

科学技術が進んだ先には、必ず宇宙に進出するようになるのでしょう。
しかし、自分の住んでいる惑星系を抜け出すほどのテクノロジーを扱うには、どうしても精神レベルが釣り合っていないと不可能なのです。
ですからどれだけ科学技術が進んでも、このまま地球の人々の精神レベルが上がらなければこちらの道になる可能性は高いです。

もう一つの道は、私たち地球の多くの人間の精神レベルが上がり、自滅せずに無事このまま実現する道です。
その時は、現在の技術や最新のテクノロジーは人間を大いに助けてくれるものになります。

どちらがいいかといえば、もちろん自滅せずに実現する方です。
そのためには地球の多くの人が宇宙の真理を理解して、地球の人々がそのレベルになることが大切です。

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